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2019.3.29

日本文化のポータルサイト 茶道とは (シリーズ)②茶道の歴史

(画像=norikko / Shutterstock.com)
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前回は、織田信長の時代までの茶道の歴史を綴ってきました。今回は、秀吉と千利休との関係を中心に、茶道が戦国の世にどうかかわってきたのかをまとめてみます。

茶道と禅の深い交わり

中国から輸入された茶は、その後さまざまな僧侶とかかわり、特に禅宗とのつながりを強め、発展してきました。京都の寺院の中でも臨済宗の大徳寺は、千利休と深いかかわりを持つ寺院です。前回出てきました茶祖といわれる村田珠光や茶人武野紹鴎は、大徳寺から茶禅一味という言葉をもらい、茶道と禅のつながりはますます強固なものとなりました。

茶の湯が醸し出すその空間と時間は、俗世間とは乖離された境地であり、それは仏教でもいう境地と相通ずるものがあります。それを端的に表すものが「掛け軸」です。「掛け軸」は、茶道の席で床の間に飾られるもので、開催される茶会のテーマに沿ってそれにふさわしい禅語などが亭主によって選ばれている傾向です。

千利休によると、長年の修行を積んだ僧侶による墨蹟(ぼくせき)を床の間に掲げることは、その禅の境地を表し、禅の修行と同様、茶道の修行も知識や書物で体得するものでなく、「三位一体で会得するものである」と説いています。

豊臣秀吉時代の茶の湯

1582年本能寺の変で自害した信長の後を継いだ豊臣秀吉は、茶の湯文化を一層大切にし、大名との関係、時には和睦などの政治的な駆け引きに茶道を使ったことが知られています。その隆盛のピークといわれているのが、1585年10月に秀吉が関白に任ぜられた際、御所内で催された「禁中茶会」と1587年10月に北野天満宮で催された「北野大茶会」が挙げられます。

特に北野大茶会では、秀吉が取集した茶道具のコレクションを参列者に見せることで、「自身が天下人になったことを示す狙いがあった」ともいわれています。そして、秀吉が催す全ての茶会を茶堂として支えたのが、自ら筆頭茶堂と名乗った大坂堺の納屋衆の一人、千利休でした。彼は、秀吉の意向を借り、政治中枢にも深くかかわり、時の政治の決定事項にも大きな影響を持つこととなりました。

しかし、「茶の湯」そのものが、あまりにも強大な力を持ち始め、秀吉は千利休をうとんじることとなるのです。そのきっかけが、秀吉が大徳寺の三門の上に雪駄をはいた利休像を置いたことを見とがめ、1591年に千利休に切腹を命じたのです。ここで、茶道史上最大の功績者である千利休亡き後、だれがその後を継いでいくのかが、秀吉亡き後の江戸時代と重なっていくのです。

徳川幕府の時代になりますと、それまで茶道にあった政治性はいったん薄められましたが、古田織部、小堀遠州、片桐石州の3人が徳川将軍家の茶の湯指南役としての立場を与えられました。

江戸初期の利休七哲

特に利休七哲と呼ばれる、7人の武家大名たちが、その後の茶道再興を担うことになったのです。

・細川忠興
・芝山宗綱
・蒲生氏郷
・高山右近
・古田織部
・瀬田正忠
・牧村利貞
(利休七哲については諸説あり)

特に江戸時代初期においては、幕府の財政力も未完成であったため、幕府も諸大名も財政力のある人材を必要としており、そこで諸大名と豪商を結ぶ役割として、「茶の湯」を活用することとなったのです。

三千家の確立

一方、千利休亡き後、秀吉から千家再興を許された息子の千少庵は、京都日蓮宗の本法寺前に茶室不審庵を作り、さらにその子の千家三代目宗旦は、当初禅僧として修業しましたが、その後千家に復帰し、さらにその3人の子供たちより、三男四代目宗左の表千家、四男宗室の裏千家、次男宗守の武者小路千家の三流儀が、ここで確立されました。

彼らは、大名家の茶堂として仕え、それぞれの大名家との関係を強め、表千家は紀州・徳川家、裏千家は加賀・前田家、武者小路家は高松・松平家とそれぞれ強固な関係を築いたのでした。

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