ライフスタイル
2019.2.25

日本文化のポータルサイト 茶道とは(シリーズ)①茶道の魅力

(写真=Sergii Kovalov/Shutterstock.com)
(写真=Sergii Kovalov/Shutterstock.com)
毎年、年明けの時期になると初釜という茶道のイベントが開かれます。これは、お正月が明けてからの初稽古に由来し、日本の歴代首相も表千家、裏千家のどちらかの初釜に顔を出すこととなっています。2019年は1月17日に安倍首相、昭恵夫人、母親の洋子さんらと東京・二番町の表千家東京稽古場で開催された初釜に出席しました。

歴史的に見ても、歴代の時の権力者は、茶道に触れ、また政治に利用もしていました。茶道は、日常生活の形式を借りて美を追求する芸術であり、そこには、「現代の日本文化のポータルサイト」とも呼べるさまざまな文化が詰まっています。例えば、茶碗(陶芸)、茶花(華道)、掛け軸(書)、主菓子(和菓子)、茶室(和建築)といったように、茶の湯の中にさまざまな日本の伝統文化が息づいているのです。

忙しい経営者だからこそ、一服のお茶を、時間をかけて飲むことで心機一転、次の仕事に取り組むことができるのではないでしょうか。

茶道の歴史

中国から日本にお茶が渡ってきたのは、平安初期805年といわれています。平安末期には、お茶の栽培も行われました。鎌倉時代の1191年、仏教研究のために中国の宋に渡っていた臨済宗の開祖である栄西が、禅宗とともに喫茶法(お茶の製造方法や飲み方)を持って帰国し、当初は薬としてお茶を利用していました。その関係で、禅宗と茶道の関係ができたといわれています。

鎌倉幕府の源実朝をはじめとする時の権力者たちが喫茶を習慣として、さらに禅宗の広まりとともに喫茶と禅宗の強まりは深まり、精神修養の形と昇華していったのです。時が経つと喫茶文化は、上流階級だけのものではなくなります。一般庶民も喫茶を楽しむようになり、より一層お茶が全国各地へ広まっていきました。

特に「茶寄合」といったお茶を中心に会話を楽しむといった習慣が出て来て、社交の道具としての側面も持ち合わせるようになりました。鎌倉後期から室町初期には、中国の宋代・元代へ貿易船が盛んに出され、中国から茶器、茶入、花器といった工芸品が輸入され、これらの物は「唐物」と称され、高価な値段で取引されました。

さらに時代が進み、お茶はさらに庶民へ広まり、「嗜好品」としての地位を確立することとなりました。この当時「茶数寄(ちゃすき)」と呼ばれる集まりでは、飲むときに使う道具に美意識を持ち始め、これが今日の茶道の原点になったといわれています。室町時代の期初に開花した北山文化では、畳が広まり始め、公家文化と武士文化が融合した中で、畳の上での喫茶の作法が広まり始め、そこに礼節や禅と結びついた思想が加わり、様式を整えた「茶の湯」文化が確立しました。

そして、室町後期になると北山文化に代表されるような豪華絢爛な飾り付けや唐物といった色使いの道具ではなく、日本文化に根差した簡素な「和物道具」が用いられます。連歌などに代表される不足の美、すなわち「わび茶」が誕生することとなりました。その作法を作った人が、村田珠光であり、「わび」という精神性と茶の湯を合体させ、現代までその精神が脈々と引き継がれているのです。

珠光のわび茶は、禅の思想も取り入れ、精神的、芸術的な「茶の湯」を確立しました。さらに、重要な人物としてあげられるのが武野紹鴎です。大阪、堺で武器商人という家業の傍らで茶人としての地位も確立し、四畳半の茶室で料理を食べ(茶懐石)、そこに和物の道具を組み合わせ、茶を飲むという現代茶道に通じる所作を取り入れたのでした。

室町の終わりから戦国時代にかけて登場した織田信長によって、「茶の湯」はそこで使われる「茶道具」にスポットが当たることとなりました。天下統一を果たした信長は、茶会や茶道具を政治に巧みに取り入れ、配下への褒美の品や、高価な茶道具の献上などを茶道具で行うようになったのです。すなわち、天下人であった信長が茶道に強烈な関心を抱くことで、周辺大名たちも茶道に関心を寄せざるを得ない状況となったのです。
 

【オススメ記事】
富裕層が「見た目を磨く」のはなぜか?
富裕層の美容と健康 人気のサービスとは?
富裕層が子どもを「海外留学」させる2つの理由
富裕層が「歯のメンテナンス」に時間とコストをかける理由とは?
世界の富裕層を魅了するリゾート地5選

PREV 手狭な敷地を上手に使い趣味も充実!半地下ルームのメリットと注意点
NEXT 時間とお金の関係シリーズ①:日本人の年代別平均的時給はいくらか

関連記事